はじめに
AIやMI(マテリアルズ・インフォマティクス)、自動化への期待が高まるなかで、材料研究開発の現場でも「データ活用」はごく当たり前のテーマになってきました。予測、最適化、解析の自動化、実験の高速化。そうした取り組みは確かに大きな可能性を持っています。
けれども一方で、現場に目を向けると、実験条件は担当者の頭やノートに残り、測定データは装置ごとに別々の形式で保存され、結果だけが資料にまとめられていく――そんな光景は今も珍しくありません。この状態でAIを使おうとしても、実は使えるデータが十分にそろっていない、という壁にぶつかります。
AI readyとは、AIツールを導入することそのものではありません。AIが意味を読み取れる形で、しかも人間にとっても再利用できる形で、研究データが整っていること。それがAI readyの本質です。
本記事では、材料研究の現場が抱えるデータの課題を整理し、「データレイク」という考え方がなぜ必要なのか、そしてどのように取り組んでいけばよいのかを紹介します。
1. 研究データはなぜ“消えて”しまうのか
材料研究開発では、日々たくさんのデータが生まれています。それでも「データがあるのに活かせない」という状況は少なくありません。その原因は、大きく3つに整理できます。
① 人の異動や退職によるデータの無価値化
実験条件や手順の詳細が担当者の記憶にしか残っていない場合、その人がいなくなった時点でデータは意味を失います。実験ノートが残っていても、「この数値は何を意味するのか」「この工程で何が行われていたのか」が読み解けなければ、せっかくの研究成果も組織の中で継承できません。研究データは本来、過去の成果を未来へ引き渡す資産であるはずですが、人に依存しているために、その価値を十分に発揮できていないのが実情です。
② 記録方法の非標準化
多くの現場ではExcelが実験データの管理に使われていますが、Excelは自由度が高いがゆえに、人によってフォーマットが異なります。サンプルを縦に並べる人もいれば横に並べる人もいる。単位の書き方も統一されていない。列が勝手に追加される。こうしたばらつきは、後からデータを統合的に扱おうとした際に大きな障壁になります。
③ 実験ノウハウの属人化
「この合成はあの人にしかできない」という話は材料研究の現場ではよく耳にします。しかし冷静に考えると、特定の人にしか再現できないということは、実験手法が十分に言語化・標準化されていないことの裏返しでもあります。うまい人と下手な人のばらつきが大きいのは、メソッドが明確になっていないことと同義であり、科学に必要不可欠な再現性の観点からも、組織としての持続可能性の観点からも課題です。
2. データを“貯める”だけでは足りない理由
「では、とにかくデータを保存しておけばよいのか」というと、話はそう単純ではありません。
既存の多くの運用では、実験条件と計測値が分離して管理されているのが実情です。計測データはファイルとして残っていても、「どんな条件で合成したのか」「どんな工程を経たサンプルなのか」という情報が別の場所――あるいは担当者の頭の中――にしかない。最終的な評価値やグラフは残っていても、どの原料をどう選び、どの順序で処理し、どの条件で合成し、どのタイミングで洗浄や測定をしたのかが十分に残っていなければ、そのデータは再利用しにくい。結果だけが残り、そこに至る過程が抜け落ちてしまうのです。
さらに、MI・PI(プロセス・インフォマティクス)の観点から見ると、問題はもう少しはっきりします。条件と結果がきちんと紐づいていないデータは、分析や学習に使いにくい。逆に、何を入力し、どんな過程を経て、何が出力されたのかが整理されているデータは、量が少なくても質の面で強い。機械が理解しやすいデータ構造であること、質の高いデータであれば少量でもAI利用が可能であること。これらはAI活用の前提条件です。
つまり、重要なのは「貯める」こと自体ではなく、「後から使える形で貯める」ことなのです。
3. 研究開発における「データレイク」とは
ここで注目したいのが、「データレイク」という考え方です。
データレイクとは、さまざまな形式のデータを生の状態で一元的に蓄積し、必要に応じて取り出して活用できる基盤を指します。ただし、ここでいうデータレイクは、単なる「大きな保存場所」ではありません。材料研究開発におけるデータレイクの本質は、実験条件、プロセス、計測値、結果、生データといった分断されがちな情報をつなげて蓄積し、次の研究で再利用できる形にすることにあります。データレイクは、研究データの倉庫というより、研究知識を継承し、活用し、広げていくための土台と考えた方が近い。
そしてこのデータレイクを中心に据えたとき、材料研究には「作る」「貯める」「使う」の循環が生まれます。自動実験や手動実験でデータを作り、条件やプロセスの情報と紐づけて貯め、AI解析や次の実験計画に使う。このサイクルが回ることで、データは単なる記録ではなく、組織の研究資産として蓄積されていきます。
ここで見落としてはならないのは、MI・PIの源泉がデータであるという点です。データをAIで「使う」ことに注目が集まりがちですが、それ以上に「作る」と「貯める」が重要です。いくら優れたAIモデルがあっても、使えるデータがなければ何も始まりません。AI活用だけを切り出して考えるのではなく、作る・貯める・使うをつないで見ることが、AI readyな研究開発への第一歩です。
4. データレイクに求められる要件
では、材料研究のデータレイクは具体的にどのような要件を満たす必要があるのでしょうか。
① 実験プロセスを記録できること
合成・精製・評価といった一連の工程を、フローとして記録できる必要があります。同じ材料名でも、合成条件や後処理の違いで結果は変わる。測定値も、測定前の加工や試料状態を知らなければ十分に解釈できない。「何をどの順序で行ったか」が記録されていなければ、結果の再現も解釈も困難です。
② 実験条件と結果を一体で保存できること
計測データだけでなく、合成温度、原料の種類・量、反応時間といった実験条件(メタデータ)を、結果と紐づけて保存できなければなりません。条件と結果が分離している限り、データの二次利用は難しいままです。
③ 変数名・単位・データ構造が統一されていること
数値が入力されていても意味と単位がわからなければ、データの比較や統合ができません。変数名と単位を一括して定義し、曖昧性を排除する仕組みが必要です。これはAIが正確にグラフを作成したり、データを解析したりするための前提条件でもあります。
④ 人にも機械にも読めるフォーマットであること
研究者が内容を確認できることはもちろん、AIやLLM(大規模言語モデル)が処理できるデータ構造であることが、AI readyなデータレイクには欠かせません。
⑤ 実験計画と結果が分離されていること
「こういう条件で実験する」という計画と、「実際にこうなった」という結果を分けて管理できると、自動実験のプロトコルとの親和性が高まります。実験計画と実験結果の差分を理解することで、次回以降の実験計画の精度を上げることができます。計画のフレームを一度作れば、数値を変えるだけでさまざまな条件に対応できるため、運用もスムーズになります。
これらの要件を満たす規格:MaiML
こうした要件を包括的に満たすデータフォーマットとして、MaiML(マイムル、Measurement Analysis Instrument Markup Language)が存在します。MaiMLはJIS K 0200:2024として2024年5月に制定された日本産業規格で、計測分析に関わる「すべての入力、過程、出力」を包括して記述することを目的として標準化されました。
MaiMLの構造は3つの層からなります。最上層のペトリネット層では、実験プロセスのフロー――どの工程がどの順序で行われるか――を記述します。中間のクラス層では、材料・条件・結果として何を記録するか、その変数名と単位を定義します。これが実験計画に相当します。最下層のインスタンス層には、実際の実験で得られた具体的な値が記録されます。
この構造により、プロセス全体の流れを俯瞰しつつ、個々のデータの意味(何を・どんな単位で・どの工程で記録したか)が一意に特定できます。同じ実験の枠組みの中で条件だけを変えながら、複数の実験結果を整理して扱いやすくなる。自動実験との相性がいいのも、ここに理由があります。
データはXML形式で記述されるため、人が読んでも意味がわかり、同時にLLMなどのAIとも容易に連携できます。実際に、MaiML形式のデータをAIに渡して自然言語で指示するだけで、ピーク解析やグラフ作成、レポート生成が自動で行われるといった活用も始まっています。
つまりMaiMLは、それ自体が主役というより、データレイクをAI readyな基盤にしていくための記述方法、共通言語、接続のルールとして機能するものです。
5. 自動実験×データレイクで変わる研究開発
データレイクの真価は、自動実験と組み合わせることでさらに明確になります。
産総研 材料基盤研究部門では、固体材料の液相合成から副生成物の除去、複数の測定(結晶評価、安定性評価、吸着量評価)まで一貫した自動化システムを構築しています。マイクロミキサーによる合成、協働ロボットを用いた固液分離・洗浄、自動測定までを連続で実行し、そのすべてのプロセスデータと測定値をデータレイクに蓄積する仕組みです。ここではMIとPI――材料そのものの探索と、合成プロセスの検討――が、同じデータ基盤の上でつながっています。
この仕組みで注目すべきは、自動化の価値が単なる省人化にとどまらない点です。どのバルブを選んだか、流量はいくつか、何分合成したか、何回洗浄したか、洗浄中の電気伝導度はどう推移したか――人が手作業でやっていると省略されがちな情報も、自動化された系なら拾うことができます。つまり、自動実験は省人化の装置であると同時に、これまで残しきれなかった研究文脈をデータとして取得する装置でもあるのです。
そして、そうした細かなデータを意味のある形で受け止める先がデータレイクです。効率的に自動実験でデータを作り、価値ある資産としてデータレイクに貯める。作る場所と貯める場所がつながってはじめて、研究データは次の研究へ回り始めます。
もちろん、すべての実験を自動化する必要はありません。手動で行った実験のデータも、同じ形式でデータレイクに蓄積できます。自動実験でスクリーニング的にデータを貯め、有望な条件を手動実験で深掘りし、その結果も同じデータレイクに戻す。こうした並列的な研究スタイルが可能になります。判断基準はデータがたまって初めて見えてくるものでもあるので、まずは貯めることが重要です。
6. データを“資産”にするために今できること
「重要性はわかるが、何から始めればよいのか」。ここでは、研究データ活用レベルとして段階的な取り組み方を紹介します。いきなり最終形を目指す必要はありません。
レベル1:共通性の確保
まずは装置に依存しない形で、物性値や単位を定義して記録するところからです。これだけでも、後からデータを振り返った際の理解しやすさは大きく変わります。
レベル2:組織内でのデータ共有
複数のユーザーが異なる装置から取得したデータを集約し、組織的に活用できる状態を目指します。データプラットフォームの導入がここで効果を発揮します。
レベル3:MIへの展開
評価結果や材料に関するメタデータを含めることで、マテリアルズ・インフォマティクスへの活用が可能になります。
レベル4:PIへの展開
合成プロセスのメタデータまで含めることで、プロセス・インフォマティクスへの展開が視野に入ります。「どう作ったか」の情報が加わることで、データの活用範囲が飛躍的に広がります。
レベル5:セキュリティ・改ざん防止
ハッシュ値を用いた改ざん防止機能などを加え、組織としてのデータの信頼性を担保する段階です。生データを含めて保存することは、研究不正の防止だけでなく、組織全体の信頼性向上にもつながります。
レベル1から始めて、段階的にデータの蓄積と活用の幅を広げていくアプローチが現実的です。また、過去に蓄積されたデータも、構造化して取り込むことで資産に変えることができます。ゼロから始めるのではなく、既存のデータを活かしながら新しいデータを積み上げていく。データレイクは完成したら終わりの箱ではなく、活用レベルを育てていく基盤でもあります。
なお、日本発の規格であるMaiMLはISO化の動きも進んでおり、数年以内に国際標準となることが期待されています。MaiMLを用いたデータ活用を進める企業にとっては、「自分たちのデータは国際規格に準拠した形で蓄積されている」と対外的に示すことができ、研究データの信頼性と価値がさらに高まるでしょう。
おわりに
材料研究開発において、これからますます重要になるのは、実験結果をただ保存することではなく、条件やプロセスと一緒に、将来の活用につながる形で残すことです。AIやMI、自動化は、その上で大きな力を発揮します。逆に言えば、土台になるデータ基盤が弱ければ、どれだけ高度な解析手法やAIツールがあっても力を出しきれません。
研究活動の中心にデータレイクを据え、手動実験・自動実験・過去データ・AIをつなぐことで、研究をより継続的で、再利用可能で、発展しやすいものにしていく。データレイクは、これからの研究開発の「裏方」ではなく、研究の進め方そのものを支える中心的な基盤になっていくはずです。